昭和四十五年四月六日 夜の御理解

 信心を、おー、本当に頂いていくという事は、んー、いよいよ自分の頂いておる自分の一家が頂いておる、うー、おかげに気付いてそのおかげに御礼の生活させて頂くという事ですけどね。んー、本当にそのおかげを受けておる事を、おー、思うたらね、不平不足なんか出る所は全然無いのですよね。心が寂しゅうなるという様な事は尚更無いのです。ところが心が寂しかったりイライラしたり感謝の心が無くなったりする所に私共の信心の、おー、まだ本当な軌道に乗っていないという事を悟らにゃいかんのですが。
 あのね、おかげを頂いておる事を思うたら何も不平も無からなければ不足も無いという事はもう毎日毎日新たな事、さらな事としてね、それが実感出来れるという事です。だから今この事はね、毎朝、毎日実感して実はお話したい様な気持ちが、いー、私は信心じゃないかとこう思うですね。今晩は、あのーその、いわゆるその答えなんか誰でも知ってる分かっているという事ですけれども、それが実感として日々頂けていくという事が信心です。ほんな事おかげ頂いておる事思うたら不平も無からなければ不足も出ず、出ようがない唯御礼を申し上げる、いわばその御礼の心が、あー、様々な御用の上にもです、えー、神恩報謝の心として顕れとして顕れていく事だけ。
 本当に私共の周辺をもっともっとね、または目には見えないそこの所を、一つあぁ本当におかげである事を分からせてもらう信心を頂かなきゃならん。それがやはり日々生き生きとした信心修行をさして頂いておるその心でキャッチするんですからね、だから、あっその、日々おかげを受けておるという事が新たなものとして頂けるんです。もう、おー、おかげをおかげと気付かせて頂くという所に信心が、しかもそれが限りなく、おっ、例えばそれがつづ、続けて行くという所に生きた信心とはね、日に日に生きるが信心なりといった様な事が言えるのであり、また、あー、御教えにもある様に「信心しておれば知ったおかげより知らぬおかげの方が多い」と仰る。知らぬおかげの面がこう開拓されてくるね、信心修行によって。だからさらな有難い、さらな物として有難いという実感の中に生活が出来る。もう生活の中にね、有難い生活が無いならばもう信心はもうそれはもう大した事っちゃないです。ただお願いをしとる、昨日のおかげを頂かんならんといった様な信心じゃあね。ん。本当におかげを分からせてもらう信心。ね。そこに有難いという生活、それが信心生活です。その信心生活をお互い目指して一つ本気で修行させてもらわにゃいけんね。どうぞ。